自己満足のススメと我慢という代償

杉山です。

今日は私の個人的な人生論についてお話します。
と言っても、普段の話も自分の人生論を書いているに過ぎませんが‥。

ただ私の話していること、考えていることに共感できる人は
多くはないと思いますがそれなりにいるはずです。

なぜなら、私は本音で話しているからです。

本音で話すとやはり伝わりやすいものです。
言葉とは本来そういうものですね。
自分が伝えたいメッセージがあるからこそ
言葉という道具が生まれたのでしょう。

だからこそ、いつも自分に正直でいるのは大切だと思います。

そこで今日は私の昔話をします。

実は私は昔から疑り深い人間でした。
良く言えば、それだけウソに隠れた「真実」を追い求めていました。

中学や高校では先生の言うことを鵜呑みにせずに
「すべてウソかもしれない」と思って、
ずいぶん斜に構えた生き方をしていました。

だからと言って、学校の先生や親に悪態をついたり
毎日授業をサボってゲーセンで遊んでいたなどということは
一切ありませんでした。

むしろ正反対のまじめくんでした。

苛立つ感情や不満があっても
それは心の中だけで思っていただけで
実際の行動には表していませんでした。

不良とは真逆の私は
ひたすら毎日勉強に勤んでいたので
きっと周りからはガリ勉の優等生に見えたと思います。

しかし本当の私は自分の自由に生きて、
好き勝手な生活をしたいと思っていました。

その一方で
自由に生きることで周りの人達と争い、ムダな衝突を起こし
そのことで余計なエネルギーを使いたくないとも思っていました。

とてもジレンマを抱えた学校生活を送っていました。

自分の心にウソをつき、不平不満で自分の頭がいっぱいになり
うつ状態になっても、それでも「まじめくん」を演じていたのは
結局は自分の満足できる人生のためでした。

先生や親の指示や期待している通りに生きていれば
とりあえずは将来の可能性は広がります。

学校のテストの点数を上げて内申点や成績、
また入試の点数を良くすれば
進学できる学校の選択肢が広がります。

そうすれば自分が本当に求めている環境へ行ける可能性も高まります。
つまり、自分の満足する人生に近づけるわけです。

そういった事は当時の私の普通レベルの頭でも理解できていました。

だからこそ、その時に授業をサボったりグレたり
犯罪に手を染めたり、暴走族になったりせずに
それなりに優等生で居続けたのです。

しかし、

そうして優等生でいることで、将来の進路の選択肢は確かに広がりましたが
引き換えに、当時の自分に我慢を強いることになりました。

高校生当時の私は自分の本心を隠し、我慢をして、
不満で心を埋め尽くす代わりに
将来の自分の可能性を広げる事を選びました。

つまり、今の満足より将来の満足を選んだのです。

「これで本当に良かったのか?」と言われれば
私は未だにその答えは出ていません。

ただ中学生、高校生の時には本当に一生懸命に勉強をしました。

そうして当時の多くの時間を勉強に使ったからこそ
その先の進路を選択できたわけであり
そのおかげで今の自分がいることは確かです。

もし勉強をしていなければ、努力していなければ
今の私はいないのは事実です。

しかしその一方で、
あの時それほど勉強に一生懸命になっていなかったら
どうなっていたのだろうと考えると
それはそれで納得できるのではないかとも思います。

勉強に使っていた時間を遊びに使っていたら
きっと当時の自分は楽しく、満足した学校生活が送れたかもしれません。

その場合は将来の満足より今の満足を選んだことになります。

私は「今の満足」と「将来の満足」、
そのどちらが良いのか、どちらを選ぶべきかは分かりません。

『今』も大事ですし、『将来』も当然大事です。
ただどちらにどれだけの比重を置くのかで
その行動が変わるのでしょう。

多くの人はその比重を無意識に選択し
それに相応しい行動を取っているのだと思います。

どのように選択し行動するのが良いのかは
人それぞれの価値観で違うのだと思います。
どうすれば幸福なのかの答えも
本当にバラバラだと思います。

しかし、唯一結論付けられることがあります。

それは、『自己満足を追求すべき』ということです。

結局誰にでも共通してオススメできることは
”自分の満足のために考えて行動する”ということです。
それだけは万人に言えることです。

世間ではよく「自己満」というと
悪い事のように言われていますが
私はそのように思いません。

むしろ「自己満」を徹底的に求めて行って欲しいと思います。

「自己満」というと他人を顧みないと思われますが
他人のためにもなっているのなら
自己満足を得ることは構わないと思います。

そもそも他人の迷惑になっていないのなら
別に自分の満足を追求しても問題ないと思っています。

もっと言えば、自分の満足がなければ
他人も満足させられないと考えています。

この話は以前書いた
「幸田露伴の幸福三説」の話に近いものがあります。

自分の幸福があって、初めて他人に幸福を与えられる、
という考え方に共通します。

結局、人間の活動の中で普遍的でずっと変わらないものは
自己満足だと思うわけです。

誰しも自分が一番かわいいと思っているし
誰しも自分が一番大事だと思っているはずです。

そうしたことは特別恥じることではありません。
人間として欲求があり、それを満たそうとすることは
ごくごく自然なことなのです。

なので、誰しもが自己満足を
当たり前なこととして堂々と追い求めて行くべきだと思います。

そして、そこで大事なことは
「どうすることが自分の満足につながるのか」であり
そこで、得るものと失うものを決める必要があります。

何かを選べば別の何かを選べません。

例えば、
この2時間を遊んでしまったら、その2時間は勉強に使えません。
3000円を飲み会に使ってしまったら、もうその3000円は他のことに使えません。

そこには必ず自分の満足と引き換えに
犠牲になるものがあります。

そこで強いられるのが我慢です。

そこでよく考えて欲しいのが
その我慢は、代わりに得られる満足に値するものなのか、ということです。

もしそこで「値しない」と思うのであれば
その選択は後悔につながるかも知れません。

特に今得る満足と将来得る満足の比較は難しいものがあります。
そこでどちらを取るべきか。

それは結局のところ自分でよく考えて選択するしかありません。
ただその時、あなたの「自己満足」が何なのか、
それを具体的にすることでその答えはより見えてくると思います。

ただ強くオススメできることは
「自己満足」を中心に考えるということです。

その自己満足は世間体とか常識とかに左右されず
あなたの本心、本音に従ったものです。

それこそが人間を幸福にするものだと思います。